「腐女子」の刻印は消えない

最古に属する部類だと思います。数十年!ぶりに甦った「萌え」にびっくりしたので、とりあえず自分のために分析した事を置きます

スムーズなのはいいことなの?

あった!

頭の隅に引っかかっており、どこかでちゃんと読んだ気がすると思って探しました。

ブログ「シロクマの屑籠」のシロクマ氏の文章を引用させていただきます。

 

コミュニケーションに際して、ノイズを避けること・フォローやブロックやアカウントを使い分けて純度を高めること・病原体のたぐい授受しないことは、定めし時代の要請なのだろう。だからこれを否定するのは私には難しい。 だけどこれは、従来のコミュニケーションから遠く隔たった、それこそ数世紀前の人がコミュニケーションとして体験していたものとは似て非なる何かだ。コンビニのレジでのやりとりは、ある意味、コミュニケーションであると同時にディスコミュニケーションではないだろうか。売買については、確かに伝わっている。だが、売買以外については伝わっていない。というよりできるだけ伝えないようにしているのがコンビニのレジでのやりとりではないか? 今、私たちがコミュニケーションと呼んでいるものは、特定の用途や話題について伝えると同時に、ノイズや感染症を遮断する。同時に、思わず伝わってしまうかもしれない何かまで遮断してしまい、伝わらなくなってしまう、ある種の可能性の狭さをはらんでいるようにも思う。

ノイズを避けるコミュニケーション──言葉も、においも、ウイルスも - シロクマの屑籠

 

「コミュニケーションであると同時にディスコミュニケーションではないだろうか」

 

その通りだと考えている。

コミュニケーションとは単なる情報の伝達のことじゃない。

ここでいわれているノイズも含めて、生の、意図しない何かも授受することじゃないかと思っている。

 

どんなになりたくたって、人間は機械じゃないですから。

代謝しながら成長し、老いる。

働き盛りの十数年ならもしかして覆い隠せるかもしれないけれど、

排泄するし、乱暴に扱えば壊れる。身体性は否定しきれない。

 

そんなことをいう自分は、場所によってはノイズが多くて嫌がられるし、でもそのノイズをすごく必要とされる場所がある。

 

子ども達のところだ。

 

ノイズを遮断しようとすることは、子ども達の生きようとする力をもぎ取るに等しい。

もしかしたら家庭では、聞き分けのいい、良くできた子かもしれない。

でも彼らがどれだけ必死で自分を抑え、無になろうと努めていることか。

 

彼らがどんなに生のコミュニケーションを、もしくは「愛情」と呼びかえられるかもしれない、を求めて縋りついてくるか、親は知らない。

かれらは一瞬で「ノイズを発する」大人を見分ける。

現場でも多数派ではないけれど、幾人もの同志が比喩ではなく両腕に、両膝に子ども達を抱えて働いている。

 

身体性を伴ったコミュニケーションを注いでやらないと子供は栄養不足で枯れていく。

 

それでね、クリーンなパッケージに包まれた”コミュニケーション”を望む人は、かつての傷つき枯れてしまった子ども達なんじゃないかと、薄っすら感じているのです。

 

 

 

追記:引用させていただいたブログ記事を通して読んで、友人の慧眼にあらためて嘆息する。

  

ところで、なぜ突然ウィルスの話かというと、上のコラムを勧めて読んだ友人が、 「あなたってさ、ウィルスみたいだよね」 という賛辞を送ってくれて嬉しかったから!!

ウィルスってなあに - 「腐女子」の刻印は消えない