「かがみの孤城」
人は、そこにあるけれど語れないことを物語にしてきた。
マイケル・ギルモアの「心臓を貫かれて」を読んだとき、
初めてその仕組を体感した。
この手法は山岸凉子もよく使っている。
家族間の精神的虐待や性的虐待、様々な病理。
1,980年当時はまだそれを認める明確な意思が社会に存在せず、
彼女は「ホラー」という形でそれを炙り出していた。
翻って2010年辺りから、家族内でも虐待が起こり得るということが社会の共通認識として成立し、子供の本の中でも触れられるようになってきた。
妹を舐めるように可愛がり、自分を決して愛さない母親との葛藤。
口うるさく娘に干渉し縛りつける母は、娘時代に祖母に同じようにされていたという連鎖。
この2冊は「虐待」とまでは言わないが、親が「毒」になり得ることを提示して、それでもなんとか着地点を見つけて語り終える。
いま読んでいる「かがみの孤城」の主題はいじめである。
けれどこの本のうまいところは、そうと言わずに、いじめの遠因が大人にあることを示唆しているところだと思う。
ひどい侮辱を受けた時に、
「あなたに私の尊厳を傷つける権利はない!」
と言えないのは、一番身近な大人に、
「あなたは一人の人間であり、愛され、尊敬されるに値する」
と教えられて育っていないからである。
それどころか、
「わたしの気にいるようにしなければ、あなたを愛さない」
と刷り込まれている。
こんな風に育てられたら自分のために闘うことはできない。
そして「誰からも気に入られ」ようとして自分を失くし、
最後は、
「こんなに我慢している私をわかってくれない人は嫌い」
という嫌なやつになってしまう。
この問題、かなりあちこちで見かけるのだけど、どうだろう。