麻薬としての物語
大きな物語は終焉したといわれた時ですら、感覚を麻痺させ、思考を鈍らせるような物語は脈々と語り継がれてきた。
COVID-19の対策も取らず、ただオリンピックの開催と無体な法案を通すことに血道をあげる政府の下で、日本人の大半はどうして「ただひたすら我慢する」という選択しか取らないのか?
その一因に物語があるといってもいい。
明瞭なのは時代物である。今日見た舞台でも、歴史上の人物つまり為政者の欲や妄執のために何千という無辜の民が殺されてもそれは些細な犠牲であると語られた。
何度もなんども繰り返し、「歴史上の人物」のつぶさな一生と、その下であたりまえのように死んでいく庶民の物語をきいてきたから、「立派な人」の人生は貴重なものだが、「あたりまえな人」の人生は取るに足りないものだ、と思い込んでいる。
前景化しない当然の仕儀になっているから、未だに悪気もなく同じパターンで話が作られる。
ただし、今日見た物語には一つだけ希望がある。
プログラムされた「本能」に抗い、自分たちにとって本当に望ましい生き方を見出すために闘う者がいることだ。
プログラムはあまりにも強固で、彼は仲間の覚醒すらおぼつかないことを知りながら、それでも静かに、あきらめず、闘っている。
私たちをぼんやりさせる麻薬としての物語がとても強い調子で語られるので、脚本家が終焉をどこに据えようとしているのかは依然分からない。
でももし、日本の容易ならざる麻痺からの目覚めを促そうとしており、そこにはほんの一筋の希望しかないことを分かって書いているならば。
身勝手な為政者と分かっていても、役者の魅力を説得力にしてしまう一路真輝演じる高台院。
疑惑を持たれ、裏切りを予感されながらも、すべての求心力である三日月宗近を体現する鈴木拡樹。
「舞台刀剣乱舞 无伝 夕紅の士」、麻薬としての物語で終わるのか、大きな物語の復権の序章となるのか、それがまだ分からない。