女性とか男性とか
女性だから、とか男性だから、という区分で何かが語られるとき、私は定義が雑だなと感じる。
その区分で語られる女性像、男性像のどちらにも自分が含まれないからだし、肉体の性別すらグラデーションである以上、社会的な性別など「とある一部分」しか掬えないと考えているからだ。
ただ、そう言ってしまうと議論にならないので、一段下がって、別の区分を使ってみたい。
何の話かといえば、”メディアが女性を性的な対象として扱うけしからん風潮”について。
企業の広告やら何やらがしばしば非難のやり玉にあがっている。
確かに、マスメディアの場合は「女性」が対象であることが多い。
だからと言ってこれを「男性」による「女性」の搾取の構造だけで語ることには異議がある。
マスではないメディアの中では「女性」だって「男性」を性的に搾取しているのだから。
ここには問題点が二つある。
現実(マス)の世界で男性が女性を搾取できるのは、パワーバランスの偏りがあるからである。
フェミニズムと呼ばれるものが、問いただしているのはこの社会構造における「権力の偏り」。
医大が女子の合格点を男子より高く設定したこと、とかね。
もう一つが、公私の混同。
個人の妄想を公の場の公開することの非。
頭の中でなら何を考えても、それは仕方ない。
でも、それを他人に見える形で提供するときには、自分が生きている社会のスタンダードに照らし合わせて、受け取ってもらえる形に刈り込む必要がある。
ましてや個人としてではなく、公の看板を背負うならなおのこと、自分が体現することになるものに注意を払わなければならない。
内輪の世界に生きすぎて、特にネットが誰からも見られるものであることを失念している人は多い。