ヤングケアラー
「パワー・オブ・ザ・ドッグ」の日本語で出ている映画評には、やはりどうにも欠けている視点がある気がしてならない。
監督は何を見せたかったのか?最初に挿入された一文を素直に受け取って、苦しむ母を救った息子の話でいいのだろうか。
そう仕向けながら、映像が映し出していたのは自分の幸せを要求すべき当然の権利として、他者を踏みにじっていく鈍感で凡庸な人だったのではないか。
男社会の牧場に子連れで嫁いで来て、侮辱され、居場所がない後家のローズ。
それは義兄のフィルのせいなのだろうか?彼女と兄の仲立ちをして居心地の良い関係を作る努力をする責任は夫であり、弟であるジョージにあるはずだ。けれどジョージは兄には引け目を感じ、ローズには罪悪感で向き合わずただ逃げるばかり。
この部分は世間が夫婦という単位におく「正しさ」という絶対的な価値によって見えにくくなっているが、そもそもジョージは大学は落第、牧場経営には興味無く、フィルが汗水流して築いた財産に胡座をかいており、兄からしてみれば自立もしていないのに結婚などちゃんちゃらおかしい。嫌味の一つや二つで済ませるフィルは辛抱強い。(というよりあまりに弟の好き勝手を我慢するので、圧倒的な孤独の中で「肉親」という存在に対する共依存があるようにも見える)
かたやローズはどうやら経済的安定を求めて結婚を承諾した節がある。夫はそっちのけで、関心があるのは成人間近の息子ばかり。
ちょっと気味が悪いくらいピーターをかまいたてる。
一方で少女のように精神的な庇護を求める様子も見られる。ピーターが連れてきたウサギに対するとき、先住民になめし皮の手袋をもらったときである。愛され守られることに飢えている。
ただし彼女は母であり、本来は息子を愛し守るべき立場にいる。しかし2度目の結婚が自分の要求を満たさないとみるや、労働の必要がない立場をいいことに酒浸りになり、息子にケアを要求し、さらに息子が戸外の生活とそれを導くフィルに惹かれはじめると半狂乱になる。
フィルはゲイであることは封印し、カウボーイを束ね、亡くなった愛する人であり、師であった人の思い出と大自然に慰めを見出して日々の労働に生きている。
そこに同じ性的志向を持つものとしてピーターが接近していく。フィルは慎重に、それでも最後はピーターを受け入れる。
フィルは師としては厳しいものの、性的なアプローチはピーターの方が性急である。
しかし最後にピーターの動機が明らかになる。ピーターの目的はフィルを籠絡して誰にも知られず殺してしまう事だった。
そして冒頭のこの言葉である。
「父が死んだ時、僕は母の幸せだけを願った。僕が母を守らなければ、誰が守る?」
酒浸りの父親が自殺した時、思春期とはいえピーターはまだ子供。
また父のこと語る口調から薄らと、DVも匂う。
なぜ子供であるピーターが「僕が母を守る」というのか、その理解こそが映画評に欠けている視点である。
子供にとって親は全てである。
アル中の父親に続いて、母親まで壊れてしまったら、彼の生存の基盤を失ってしまう。「母を守る」は「僕を守って!」の裏返しなのだ。
それなのにこの母は自分の弱さを支えきれず、ピーターの苦境に気づくことなく遠慮会釈無しに息子にもたれかかる。
かくしてピーターは自分の生存と母の生存を区別できないまま、母親が結婚生活の障害とみなした夫の兄を殺してしまった。
女性蔑視の激しい時代と地域での女性の生き辛さ、同じようにヘテロセクシャルとして以外の生き方が許されない中でのフィルの苦境に触れている評はみるのだが、ピーターの母親を必死で支える以外に生き延びるすべがなかった、ヤングケアラーとしての絶望的な未来のなさに言及している人がいない。
そのことに子どもの問題の難しさを感じる。
なぜなら、子どもは声をもたないからだ。
どんな状況にあっても、18年生きのびれば「子ども」は「おとな」になってしまう。
そうして時には悠々と搾取する側にまわれるのだ。
1960年代にアリス・ミラーが子供時代の重要性にあれだけ言及しても、いまだ同じことが続いているのはそこに原因があるのだと思う。
「パワー・オブ・ザ・ドッグ」は、私にとってはやりきれない、ヤングケアラーの物語だった。
支配と虐待
本はまさに必要とするときに手の中に落ちてくる。
主人公タラは、政府を敵とみなし自給自足を目指して山間に立てこもるサバイバリストの夫婦の何人目かの娘として生まれる。父親の信条から学校にも通えず、医者にもかかれず、10歳に満たないころから兄弟と共に父親の危険なスクラップ業を手伝わされていた。長じて家を出て大学に通い、一般社会への適応に混乱をきたしながらも歴史学者として才能を開花させる。
あらすじにしたら風変わりな出自を持った女性の成功物語に聞こえるが、ひとたび読み始めると、そこにある苦痛と、混乱と、悲嘆の呻きに押しつぶされそうになる。
父親は誇大妄想にとらわれており、すべての物事は神の思し召しだと固く信じている。
子供たちに生業の金属スクラップの回収を手伝わせているのだが、安全管理などという発想はさらさらなく、娘のいる方角に鋭利な金属片を投げて怪我を負わせても、よけられなかった娘を冷笑するような男で、骨に達するような重傷を負ったことがない兄弟がいない。
孤絶した環境で妻と子供を徹底的に支配しており、タラも「世界中が間違っていて、父一人が正しい」訳がない、とはなかなか気づけない。
ようやく生家を離れ大学に通い始め、どうやら世の中は自分が教えられてきたような場所ではないと薄々理解しても「父の目を通してみた自分」という呪縛から抜け出せず、自分を労わろうとする周囲を拒絶して、肉体的苦痛を和らげる手立てすらとることができない。
彼女は才能豊かで、非常に勉強家だったのでケンブリッジで修士号を取得し、ハーバードに客員研究員として招かれるまでの業績を出し、友人もでき、家を出て何年もたっているのに、それでも全てを投げうって父親の足元にひざまずき、許しを請いたいという渇望にさいなまれるのである。
激しい葛藤の中で、彼女が自分自身を見出だしていくいく言葉は鋭い。
”私の恥は、上下に動く大バサミから自分を引き離すのではなく、そこにおしやる父を持ったことから来ていた。隣の部屋にいる母が、目を閉じ、耳をふさぎ、私の母でいることを放棄したのを知った、床に倒れていたあの瞬間から来ていたのだ。”
”もしいま私が譲歩してしまったら、私が失うのはこの議論以上のものになる。私は自分自身の心を守る権利すら失ってしまう。これこそが私が支払うことを求められていた代償だったことを、いま私は理解している。父が私から追い出したかったのは悪魔じゃない。
私そのものだったのだ。”
ついにその闘いに終止符を打った時、彼女は自分自身を勝ち取っらせたのは ”教育” の力だと宣言する。
この父の在りようは「沼の王の娘」に近い。
そしてこの手記を読むと「父を撃った十二の銃弾」はよくできたファンタジーであり、決して実在することはできない、「アメリカ人の父というものの理想像」なのだということがよく分った。
麻薬としての物語
大きな物語は終焉したといわれた時ですら、感覚を麻痺させ、思考を鈍らせるような物語は脈々と語り継がれてきた。
COVID-19の対策も取らず、ただオリンピックの開催と無体な法案を通すことに血道をあげる政府の下で、日本人の大半はどうして「ただひたすら我慢する」という選択しか取らないのか?
その一因に物語があるといってもいい。
明瞭なのは時代物である。今日見た舞台でも、歴史上の人物つまり為政者の欲や妄執のために何千という無辜の民が殺されてもそれは些細な犠牲であると語られた。
何度もなんども繰り返し、「歴史上の人物」のつぶさな一生と、その下であたりまえのように死んでいく庶民の物語をきいてきたから、「立派な人」の人生は貴重なものだが、「あたりまえな人」の人生は取るに足りないものだ、と思い込んでいる。
前景化しない当然の仕儀になっているから、未だに悪気もなく同じパターンで話が作られる。
ただし、今日見た物語には一つだけ希望がある。
プログラムされた「本能」に抗い、自分たちにとって本当に望ましい生き方を見出すために闘う者がいることだ。
プログラムはあまりにも強固で、彼は仲間の覚醒すらおぼつかないことを知りながら、それでも静かに、あきらめず、闘っている。
私たちをぼんやりさせる麻薬としての物語がとても強い調子で語られるので、脚本家が終焉をどこに据えようとしているのかは依然分からない。
でももし、日本の容易ならざる麻痺からの目覚めを促そうとしており、そこにはほんの一筋の希望しかないことを分かって書いているならば。
身勝手な為政者と分かっていても、役者の魅力を説得力にしてしまう一路真輝演じる高台院。
疑惑を持たれ、裏切りを予感されながらも、すべての求心力である三日月宗近を体現する鈴木拡樹。
「舞台刀剣乱舞 无伝 夕紅の士」、麻薬としての物語で終わるのか、大きな物語の復権の序章となるのか、それがまだ分からない。
家族だから?
ここの記事で数回、「家族じゃなきゃ(その無作法には)つきあわない」と書いたことがあるのだけれど、書きながら「家族だから」受け入れる訳では無いと薄っすら考えていた。
正確に述べるなら、家族またはチームの一員として一緒にやっていくという選択を、私がし続けているから、受け入れる。
いつか未来にその選択をやめるかもしれないし、相手の方から「解散」を告げられるかもしれない。
「家族」とは暫定的なものでいいと思う。
一緒にやっていけないと思ったら解散すればいい。
解散を受け入れてもらえないなら逃げればいい。
訳あってとどまるなら、文句は言わない。(相手にということで、友達に愚痴をもらすのはまあ仕方ないかな)
どんな状況も、自分が選択してるんだ。
人を責めてる場合じゃない。
呪いに嵌る
人を呪わば穴二つ。
久しぶりに出現したので記録してみる。
娘の「私のことが好きなら~しないで」。
禁止されたことがどうでもいい事の時は、波風立てるのが面倒くさいので言われたままにするけれど、そこまで言ったら個人の自由の侵害だよ、と思ったら自分の好きなようにする。
今回は、美容院に行く私に「フツーじゃない髪型にしてこないで!」ときた。
もちろんあっさり無視して、「実験が爆発した科学者」みたいな頭にした。
すると、どうなるか。
「しないで」をしてきた母親は「自分のことが嫌い」ということになってしまうのだ。
私を縛ろうとしてかけた呪いに自分が嵌ってしまうのである。
私はこういう呪いをかける人が沢山いることを知っている。
一番分かりやすくて陳腐なのは、「私と仕事のどちらが大事か」。
「私が悪いと言いたいのか?」もよく聞くなあ。
あなたが嫌い、または大事ではない、悪い、というメッセージを出すわけにはいかないから、焦って要求をのまされがちだとし、呪いをかける側はそういう答えがこない前提でいる。
でもよく考えれば、「あなたが好き」と「髪型を自由に決める」は並べて選択できる領域にはいない。
だから私は遠慮なく自分の好きにする。
娘が自分の掘った穴に嵌って不機嫌に落ち込んでいても、自分の理不尽さ、もしくは戦略の失敗に気づいて戻ってくるまで放っておく。
あなたのことは好きだが(尊敬しているが、etc...)、あなたが私のやることを取り止めさせる権利は無い(道義に反していなければ)し、どう思われようが興味はない。
これが、呪いをはね返す呪文である。
ちなみに、批判したり、批評するのは相手の自由だと思っている。
(泣いたりわめくのも勝手だけど、家族じゃなければ付き合わないかな)
気概をもつ
まだ一月だけど、今年のベストになりそうな本に出会った。
「メイドの手帖」
”その思いがきっかけとなって、ミアに与えることができなかった他のすべてのものごとがグルグルと回りはじめた。私は膝をしっかりと抱えて、顔を流れる涙を拭おうともせず、私を包み込むネガティブな恐怖の渦を遮るために、いつもの呪文をつぶやきはじめた。落ちついて、本当のパニックに陥っていくスパイラルを止める呪文だ。
愛してる、私はあなたのためにここにいる。
私の心が理解しなければならなかったのは、誰かがそこにいてくれて、すべての状況を改善してくれるということだった。あの夏、歯を食いしばりながら、その誰かは自分自身で、男でも、家族でもなく、これからは私だけ、と決めたのだ。誰かが私と一緒にいてくれて、私を愛してくれることを望むのをやめなければならなかった。私は自分で自分を愛さなければならなかった。
昔の自分という幽霊を、そこに立ったままみつめることもあった。より年齢を重ね、賢くなった自分が、慰めを与えようとするかのように。パニックが起きたら、自分の賢明な部分に目を向ける方法も覚えた。十年後の自分、地獄をくぐり抜けた自分だ。そんな自分が存在するのだと私は信じなければならなかった。”
彼女はシングルで、小さな子供がいて、最賃で働かなければならなかったけれど、生きていくのに必要な強さを獲得するための真実にたどり着いた。
最終的に、自分を助けることができるのは自分だけなのだ。
自分を最もよい方法で愛することができるのも。
それが尊厳であり、誰にも踏みにじられることのないものである。
愛されることを待たずに、自分自身を愛し、目の前の誰かを愛すること。
そうすることが、自分の人生を完璧なものにしてくれる。
足るを知る
「欲望のおもむくままにうごいて良いことはない」
そうだっけ、と思ったのでしばし立ち止まった。
よく考えた結果、そうだなと思った。
好きなようにする。
好きなことをする。
好きなだけする。
似ているようでちょっとだけ違う。
好きなようにする、というのは選択肢があるなかで。
または「七十而従心所欲、不踰矩」。
好きなことをするというのは結構魔物で、
熱心という言葉が「心を熱する」と表されるように、
度を超す(好きなだけする)と上半身に熱がこもって心身に不調が出る。
どこで止まるか考えずに欲望のままに動くと、
雪だるま式に欲望が増えて強欲にもなり、
強欲であるということは、心身を蝕む。
心と欲の支配権が逆転するから。
もともとは腹八分目とか、食べすぎ注意っていうだけの話題だったのだけれど、結構大事な一言だったな、と思う。