「腐女子」の刻印は消えない

最古に属する部類だと思います。数十年!ぶりに甦った「萌え」にびっくりしたので、とりあえず自分のために分析した事を置きます

音楽のちから

ジャンルを問わず音楽が好き。

何を聴くかはその日の波長による。

 

ぴったりの音がくると、からだや気持ちのこわばりがするっと緩んでとけていく。

 

音楽は、考える前に気持ちを動かす。

(身体もだけど)

本を読んでも、映画やお芝居をみても、感動するのは考えてから。

 

ただ音だけが、理由なく胸を揺さぶる。

コミュ力またはコミュ障

昨今コミュニケーション能力といった時、その高低は当意即妙な受け答えができるとか、察っしがいいとかそういったことではなくて、

もうコミュニケーションに対する意欲と頻度のことでいいんじゃないかと思う。

 

コミュニケーションとは先ず、テニスでもバレーボールでも卓球でもいいけれど、ラリーを続けることだと思う。

ボールが来たら、返す。

ずばっと真ん中に返ることもあるし、とんでもないところに飛んでいくこともある。

受けやすいところに返すこともできる。

逆もしかり。

うわ、取れない!というところに来て落としたら拾って、

「すみません、お手柔らかに」と言って投げ返せばいい。

 

球技と同じで、何度も繰り返せばうまくなる。

そうやってラリーを続ける中で、相手のことが分かってくる。

 

「いっつもヘンなとこに来るけど、この人の球をとるのは楽しい」とか、

「ラリー続くけど単調だな」とか。

上手い下手ではなく、合うあわない。

それも、自分の調子によっては変化球が楽しい日と、単調な方がありがたい時だってある。

「この人はだいたいこういう球筋の人」と判断されるのは、ただ事実そう、というだけでそこに価値は含まれないのである。

 

自分がコミュ障だという人には2通りあって、数が多いのは

「自分、苦手なんですみません」

と言って、球を受けずに転がしたまま立ち去る人。

 

どんな球でも取るからさ、一回打ち返してみてよ。

 

失敗することの怖さに、参加しないことを選ぶ。

いつまでたってもできるようにならないよう!

 

もう一方は、いい球だすのに、たまたま打ち返さない人に囲まれているせいで「自分の球筋が悪い」と思ってる人。

でもこっちのタイプはそれでも球を出し続けてくれるので、気が付いたら拾いに行ける。

 

あー、あとね、

「自分なんか」

という人たちは完璧じゃない自分を嫌いなように、他人のいかなる欠陥も許さないよね。

コロンブスの卵だけど、自分の至らなさを許せば、他人のそれも受け入れられるのか、その逆か。

生まれた以上、誰しも迷惑はかけるのよ。

お互い様でいーじゃない。

 

ははは。

あと何年かしたら、こちらの人種の方が「ところかまわず球を出す迷惑なだけの人」になりそうだけど。

でも、他人にも、自分にも大らかな社会の方が生きやすいよ、と思ってます。

女性とか男性とか

女性だから、とか男性だから、という区分で何かが語られるとき、私は定義が雑だなと感じる。

 

その区分で語られる女性像、男性像のどちらにも自分が含まれないからだし、肉体の性別すらグラデーションである以上、社会的な性別など「とある一部分」しか掬えないと考えているからだ。

ただ、そう言ってしまうと議論にならないので、一段下がって、別の区分を使ってみたい。

 

何の話かといえば、”メディアが女性を性的な対象として扱うけしからん風潮”について。

企業の広告やら何やらがしばしば非難のやり玉にあがっている。

確かに、マスメディアの場合は「女性」が対象であることが多い。

だからと言ってこれを「男性」による「女性」の搾取の構造だけで語ることには異議がある。

マスではないメディアの中では「女性」だって「男性」を性的に搾取しているのだから。

 

ここには問題点が二つある。

 

現実(マス)の世界で男性が女性を搾取できるのは、パワーバランスの偏りがあるからである。

フェミニズムと呼ばれるものが、問いただしているのはこの社会構造における「権力の偏り」。

医大が女子の合格点を男子より高く設定したこと、とかね。

 

もう一つが、公私の混同。

個人の妄想を公の場の公開することの非。

 

頭の中でなら何を考えても、それは仕方ない。

でも、それを他人に見える形で提供するときには、自分が生きている社会のスタンダードに照らし合わせて、受け取ってもらえる形に刈り込む必要がある。

ましてや個人としてではなく、公の看板を背負うならなおのこと、自分が体現することになるものに注意を払わなければならない。

 

内輪の世界に生きすぎて、特にネットが誰からも見られるものであることを失念している人は多い。

 

ちりぬべき ときしりてこそ...

ツイッターで、2.5次元は男性に占有されてたビジネスだ、と呟いた。

そのあとで、消費者である女性が女性をのぞまないなら、もっと大きな問題だ、と考え、そしてはたとあることを忘れていたのに気が付いた。

 

まず、女性が女性を望まないかもしれない理由について。

一つ目は、「競争相手は少ない方がいい」

男性が男性にプロデュースされている女性を気にする風がないのは、「選ぶ側」と「選ばれる側」という意識の非対称があるのでは、というもの。

 

二つ目は、「女性性を消化できない」

ポジティブな女性のロールモデルを描けないので排除する、というもの。

 

ここで、忘れていた大事な事。

「科白劇 刀剣乱舞/灯 改変 いくさ世のあだ花の記憶」には細川ガラシャがいたではないか!ということ。

宝塚出身の俳優、七海ひろきさんが演じておられ、演技も脚本もものすごくよかった。

 

伝記では、のちのガラシャ明智たまは才媛で、細川忠興に嫁いでむつまじく過ごすが、父明智光秀の謀反で一転、幽閉される。数年後、幽閉を解かれて細川家に戻ったものの、忠興は側室を囲っており、キリスト教に慰めを見出し改宗する。

その後、忠興が上杉征伐のため屋敷を空けた際石田三成に包囲され、身のいたずらを憚って介錯をうけ、自害した。

 

このたまをどう描いたか。

 

自害せず、生き延びたもう一つの世界に、窶れはてた忠興が追ってくる。

忠興は、

「たまが憎い、俺だけを見ずにキリストに身を捧げたあいつが憎い」

という執着を見せながら、二度までか三度目もたまを斬ることができない。

 

一方のたまは、自分に執着しながら向かい合おうとしない忠興を蔑みながらも、今度こそはという望みを捨てきれず、

「忠興様がにくい。憎くて、にくくて愛おしい」

という。

 

物語の冒頭でたまは花に例えられるのだが、才長けていたために花として従順に生きることもできず、また女であるために世に打って出ることも叶わずに、男が男であるが所以の駄目さに満ちみちた夫に疎まれ、

「鬼の妻なら蛇が似合いでしょう」

と慟哭する。

 

七海さんの「憎くて、にくくて」、と「鬼の妻なら」は本当に素晴らしくて、

「妻」をやったことがある人なら、心を持っていかれると思う。

 

愛する歓び、女であることの口惜しさ、男への蔑みと相反する憧れ。

 

ここで描かれた、たま、ことガラシャは言葉にできない「女性」であることの苦悩を体現していたと思う。

 

脚本と演出は男性である末満健一さん。

 

いわゆる美男子ばかりを集めた舞台に、突如女性を出演させて、ここまで書けることに脱帽。(このテーマが先にあって出演を決めたならなおさら)

 

思い返すと、随所に含みのあるセリフがあったなあ。

 

 

とりあえず、自分が好きなものに間違いはなかったというところまでたどり着いたけど、オタクの消費文化と倫理、とかジェンダーについてはまだまだ考える余地は沢山ある。

物語の効用

物語は自分の問の答えを求めに行くものだと思っている。

そういう意味で「ハイキュー!!」には、

成長し、成熟し、自分の足で立つことが、人生をよく生きるためのあり方だ、と確認しにいったようなところがある。

誰も病まず、依存せず、壊れない。

昨今めずらしい強い、つよい物語だった。

 

私自身は、あまり迷わない。めざすところも知っている。

ただ、今、時代が変わろうとしている。

今まで大事なことだと共有されていた価値観が崩れている。

 

武器としての「資本論」

武器としての「資本論」

 

 

「資本の増殖」以外は意味も価値も持たない。

そして、富むものも貧しいものも資本に魂まで包摂されていく。

 

そこで折れずに、抗い続けるために私には違う物語がいる。

なぜなら、今までやってきたことは周りの人達を幸福にしたけれど、私のやることは変わらないのに、この先だれにも喜ばれないかもしれないから。

 

ビックリハウスにいるようだ。

立っているところは変わらないのに、ぱたん、と背景が変わる。

 

「舞台 刀剣乱舞」にはこのトリッキーな感覚が凝集されている。

脚本、演出をされている末満健一氏は同時代人でもある。

上の世代と仕事をし、若い人たちを磨くなかで両者の心象を汲み上げ、どんな未来が可能だと考えるのか、わたしはそれを見届けたい。

「舞台 刀剣乱舞」のおもしろさ

刀剣乱舞」という名前しか知らずに、5月の無料配信を観た。

舞台設定も、登場人物の名前もわからずに観るのだから、そこで何が起こっているのか、推測するだけで精一杯だった。

 

最初に引っかかったのは「主命とあらば」という言葉だった。

時期が時期で、不誠実な政府に業を煮やしているのに、無批判にこの登場人物が置かれているならたいしたもんだ、と思ったのである。

しかし、わりとすぐに作り手には含意があるらしいことが知れてくる。

では、何を言わんとしているのか読み取ろうと、主軸に据えられそうな人物を追っていっても、惑い、揺れ、変節し、そうやすやすと結論づけさせてはくれない。

結局、観客も登場人物と同じ様に、一抹の不安と一杯の疑問を抱えたまま取り残される。

 

物語はどこへ向かっているのだろうか?と、

考えさせるところがこの舞台の一番の面白さだと思う。

 

そこに拍車をかけるのが、役者の演技である。

微笑んでも目が笑わない三日月宗近

役者の癖なのかと思いきや、かなり後に理由があることが判明する。

千秋楽の舞台挨拶で、登場人物と役者の境界を曖昧にするようなことをいう山姥切国広。

登場人物の心情の変化と、役者自身の変化が重なる山姥切長義。

メタな演出がますます物語に不穏な風を吹き込んでいる。

 

不安定な世界で、どう生きれば幸せだったといえるのか、そんなことを問いかけられているシリーズだと思う。

そもそも議論とは

議論とは相手を黙らせるためにすることではない。

かみ合わない点をあぶり出し、落としどころを探るためにする。

 

だから当たり前のようにネットとは相性が悪いね。

Twitterは情報の取集と拡散には向いているけど、短文細切れで何をかいわんやだし、

ブログも定義とスタンスを表明するにはいいけど、応酬はむずかしい。

 

論点を整理するために、または深めるために「それってつまりどういうこと?」と問いかけたい話題が宙をまってるのだけど、リアルで遭遇しない限り、物言えば唇寒し。