ひっかかる人称
喋りながら、いちいちなんか違う、とおもう言葉がある。
それは「おばさん」。
年齢のことじゃなくて、
「おじさん」でもないんだよな~ってこと。
性別を限定する呼称にとっても違和感がある。
男性だったことはないから、世間的に面倒だし女性のくくりにおさまるけど、じゃあ性自認が女性だったことはあるのかといえば、それもない。
高校時代から「人というよりは木の股から生まれたみたいだ」といわれ、
「木の股から生まれるのは悪魔だけど、言いたいことはわかる」だった。
ズボンは嫌いだから履かないけど、それを言うなら短いスカートも着心地悪いから着ない。マキシのスカートを着るのは布がたっぷりした衣服が好きだからで、別にルンギーだってトーブだって良い。
私はいつだってわたしなだけだ。
おばさんに代わるもう若くないってことを示す言葉には「中年」があるけど、自称には使いにくいねえ。
「傷つける人」になるとき
前回の記事で、自由な大人であれば「傷つけられる」場面に遭遇することは回避できるだろうと書いた。
「自由な」というところが要点で、特殊な状況で自由を奪われている場合、あなたの自由を奪った者はあなたを傷つけることができる。
(ただ捕虜にでもなったのでもなければ逃走する可能性はいつも開かれている)
そして意図的に他人に害意を持たなければあなたは「傷つける人」になることは無い。
ただし、権力の不均衡がある場合は別である。
大人であれば、望むと望まざるとに関わらず圧倒的な権力を手にする場面がある。
それは子どもに向き合ったときだ。
家庭であれ、様々な教室であれ、大人は常に子どもに対して絶大な権力を持つ。
何故ならば、子どもは未成熟であるという一点において「自由に思考する」ことができない、つまり逃げ出すことが選択肢にないからだ。
この前観たたお芝居で、主人公の鍵になる台詞は最初、
「傷つけられたくない」、
それがつぎの場面で、
「傷つけたくない」
になる。
主人公とはリチャード三世で、子ども時代は生母に疎まれ、周囲にもさげすまれて育ち、成長した暁には暴君として悪逆無道のかぎりをつくす。
穿ってみれば、害意は強い者から弱い者へと順繰りに受け継がれていく。
ちなみに劇中のリチャード三世は、
良心によってかつて弱く、今は非道であった自分を丸ごと認め愛したうえで、連鎖を断ち切る意味もこめて自害してしまう。
権力とは持っていれば行使したくなるものである。
子どもの前に立った時、「傷つける」人になってはいないか、
常に自問自答を繰り返す。
アセクシャルという性癖
20年の後半は、舞台を観たり、守備範囲以外の小説を読むことが増えた。
その中でつくづく感じたのは、自分のアセクシャルとしての「特殊性癖」だ。
つい先日も舞台で、
「あなたは私のものだ!」という台詞を聞いてすっかり酔から醒めてしまった。
これを受けるのは、
「私は誰のものにもなりません」
で、そりゃそうだわ、と思いながらも筋の運びでは彼女が「あなたのもの」になるのが見えている。
これは劇中劇の台詞なので、本編はまた違う意味を持っているのだけれど、ここで二人の恋を応援できないと熱中できないのは確かだ。
思い返せば小学生の頃から、まわりが安全地帯に熱を上げる中「声はいいけど歌詞がいまいち」とか、皆がドリカムを熱唱しているときに「けっ嘘くさい」とか思ってきたのは、捻くれていたからではなく恋とかロマンスにご用がなかったからだ。
恋の形をとった打算とか、病理とかの話のほうがどこかで破綻するスリルがある分まだ面白い。
ホルモンの作用による恋は「楽しそうでよかったね」と言うよりない。
ここで間違えちゃいけないのが「人を好きにならない」訳ではないということ。
ただ好きのベクトルがエロスではなくアガペだというだけ。
恋愛は自然にする人がするんであって、無理に真似しなくていい。
結婚は恋愛の果てにあるものではなく、したければ計画に基づいてできる。
世の中はまだまだ「恋愛」が主流のコンテンツだが、じわじわとそうでないものも増えてきた。
何かを読んだり観たりして、のれないと思ったら、一度自分の好みを掘り下げてみるといい。
「傷つける(つけられる)」という言葉の欺瞞について
以前から薄っすら引っかかってはいたが、ある舞台の台詞でそれが明確な疑問の形をとった。
「傷つけたくない」という言葉が意味するところは何か?
これを考えるとき「傷つける」という行為の向う側にいる相手からみてみると分かりやすい。
「傷つけられた」という場合をみてみよう。
まずこれには「攻撃された」時がある。
攻撃してきた人に悪意がある場合、その人は「危険な人」。
攻撃している人で自覚がない場合、その人は「失礼な人」。
もう一つの「傷ついた」という場面がある。
それは「図星をさされた」時である。
これによって傷つくのはあくまで自分の落ち度に端を発しており、
意図をもって図星を突く人は、「忠告」する人であり、
意図せずに図星を突く人は、あなたにとって「相性の悪い」人と言えばいいだろうか。
「傷ついた」というのはとても日本語らしい表現で、いかにも「相手のせいで」という風を装って責任を転嫁する言い方であり、実は「傷つけた」を受ける受動態ではない事がお分かりだろうか。
「傷つけた」を受けるのは「傷つけられた」なのだ。
こうやって分解すると、
「傷つけたくない」という言葉が、言いたいことの核心を表していないことが分かる。
「危険な人」や「失礼な人」に好んでなろうと思わなければ「傷つける」ことは避けられるのだ。
「傷つけたくない」と人が言う時、
それは「傷ついた」と相手に言われたくない、つまり、
「嫌われたくない」という意味なのである。
これもまた、自分の感情を引責せずに相手に転嫁する言い方である。
日本語では、こうやって行為の主体をぼかし、巧妙に相手に責任をなすりつける喋り方が可能なのだ。
腑に落ちないことがある時は、問題を分解してみると、新しい模様が見えてくる。
ただ、これに準じない「権力の勾配」という状況があって、それについてはまた今度。
コミュ力またはコミュ障
昨今コミュニケーション能力といった時、その高低は当意即妙な受け答えができるとか、察っしがいいとかそういったことではなくて、
もうコミュニケーションに対する意欲と頻度のことでいいんじゃないかと思う。
コミュニケーションとは先ず、テニスでもバレーボールでも卓球でもいいけれど、ラリーを続けることだと思う。
ボールが来たら、返す。
ずばっと真ん中に返ることもあるし、とんでもないところに飛んでいくこともある。
受けやすいところに返すこともできる。
逆もしかり。
うわ、取れない!というところに来て落としたら拾って、
「すみません、お手柔らかに」と言って投げ返せばいい。
球技と同じで、何度も繰り返せばうまくなる。
そうやってラリーを続ける中で、相手のことが分かってくる。
「いっつもヘンなとこに来るけど、この人の球をとるのは楽しい」とか、
「ラリー続くけど単調だな」とか。
上手い下手ではなく、合うあわない。
それも、自分の調子によっては変化球が楽しい日と、単調な方がありがたい時だってある。
「この人はだいたいこういう球筋の人」と判断されるのは、ただ事実そう、というだけでそこに価値は含まれないのである。
自分がコミュ障だという人には2通りあって、数が多いのは
「自分、苦手なんですみません」
と言って、球を受けずに転がしたまま立ち去る人。
どんな球でも取るからさ、一回打ち返してみてよ。
失敗することの怖さに、参加しないことを選ぶ。
いつまでたってもできるようにならないよう!
もう一方は、いい球だすのに、たまたま打ち返さない人に囲まれているせいで「自分の球筋が悪い」と思ってる人。
でもこっちのタイプはそれでも球を出し続けてくれるので、気が付いたら拾いに行ける。
あー、あとね、
「自分なんか」
という人たちは完璧じゃない自分を嫌いなように、他人のいかなる欠陥も許さないよね。
コロンブスの卵だけど、自分の至らなさを許せば、他人のそれも受け入れられるのか、その逆か。
生まれた以上、誰しも迷惑はかけるのよ。
お互い様でいーじゃない。
ははは。
あと何年かしたら、こちらの人種の方が「ところかまわず球を出す迷惑なだけの人」になりそうだけど。
でも、他人にも、自分にも大らかな社会の方が生きやすいよ、と思ってます。
女性とか男性とか
女性だから、とか男性だから、という区分で何かが語られるとき、私は定義が雑だなと感じる。
その区分で語られる女性像、男性像のどちらにも自分が含まれないからだし、肉体の性別すらグラデーションである以上、社会的な性別など「とある一部分」しか掬えないと考えているからだ。
ただ、そう言ってしまうと議論にならないので、一段下がって、別の区分を使ってみたい。
何の話かといえば、”メディアが女性を性的な対象として扱うけしからん風潮”について。
企業の広告やら何やらがしばしば非難のやり玉にあがっている。
確かに、マスメディアの場合は「女性」が対象であることが多い。
だからと言ってこれを「男性」による「女性」の搾取の構造だけで語ることには異議がある。
マスではないメディアの中では「女性」だって「男性」を性的に搾取しているのだから。
ここには問題点が二つある。
現実(マス)の世界で男性が女性を搾取できるのは、パワーバランスの偏りがあるからである。
フェミニズムと呼ばれるものが、問いただしているのはこの社会構造における「権力の偏り」。
医大が女子の合格点を男子より高く設定したこと、とかね。
もう一つが、公私の混同。
個人の妄想を公の場の公開することの非。
頭の中でなら何を考えても、それは仕方ない。
でも、それを他人に見える形で提供するときには、自分が生きている社会のスタンダードに照らし合わせて、受け取ってもらえる形に刈り込む必要がある。
ましてや個人としてではなく、公の看板を背負うならなおのこと、自分が体現することになるものに注意を払わなければならない。
内輪の世界に生きすぎて、特にネットが誰からも見られるものであることを失念している人は多い。