「腐女子」の刻印は消えない

最古に属する部類だと思います。数十年!ぶりに甦った「萌え」にびっくりしたので、とりあえず自分のために分析した事を置きます

コミュ力またはコミュ障

昨今コミュニケーション能力といった時、その高低は当意即妙な受け答えができるとか、察っしがいいとかそういったことではなくて、

もうコミュニケーションに対する意欲と頻度のことでいいんじゃないかと思う。

 

コミュニケーションとは先ず、テニスでもバレーボールでも卓球でもいいけれど、ラリーを続けることだと思う。

ボールが来たら、返す。

ずばっと真ん中に返ることもあるし、とんでもないところに飛んでいくこともある。

受けやすいところに返すこともできる。

逆もしかり。

うわ、取れない!というところに来て落としたら拾って、

「すみません、お手柔らかに」と言って投げ返せばいい。

 

球技と同じで、何度も繰り返せばうまくなる。

そうやってラリーを続ける中で、相手のことが分かってくる。

 

「いっつもヘンなとこに来るけど、この人の球をとるのは楽しい」とか、

「ラリー続くけど単調だな」とか。

上手い下手ではなく、合うあわない。

それも、自分の調子によっては変化球が楽しい日と、単調な方がありがたい時だってある。

「この人はだいたいこういう球筋の人」と判断されるのは、ただ事実そう、というだけでそこに価値は含まれないのである。

 

自分がコミュ障だという人には2通りあって、数が多いのは

「自分、苦手なんですみません」

と言って、球を受けずに転がしたまま立ち去る人。

 

どんな球でも取るからさ、一回打ち返してみてよ。

 

失敗することの怖さに、参加しないことを選ぶ。

いつまでたってもできるようにならないよう!

 

もう一方は、いい球だすのに、たまたま打ち返さない人に囲まれているせいで「自分の球筋が悪い」と思ってる人。

でもこっちのタイプはそれでも球を出し続けてくれるので、気が付いたら拾いに行ける。

 

あー、あとね、

「自分なんか」

という人たちは完璧じゃない自分を嫌いなように、他人のいかなる欠陥も許さないよね。

コロンブスの卵だけど、自分の至らなさを許せば、他人のそれも受け入れられるのか、その逆か。

生まれた以上、誰しも迷惑はかけるのよ。

お互い様でいーじゃない。

 

ははは。

あと何年かしたら、こちらの人種の方が「ところかまわず球を出す迷惑なだけの人」になりそうだけど。

でも、他人にも、自分にも大らかな社会の方が生きやすいよ、と思ってます。