コミュ力またはコミュ障
昨今コミュニケーション能力といった時、その高低は当意即妙な受け答えができるとか、察っしがいいとかそういったことではなくて、
もうコミュニケーションに対する意欲と頻度のことでいいんじゃないかと思う。
コミュニケーションとは先ず、テニスでもバレーボールでも卓球でもいいけれど、ラリーを続けることだと思う。
ボールが来たら、返す。
ずばっと真ん中に返ることもあるし、とんでもないところに飛んでいくこともある。
受けやすいところに返すこともできる。
逆もしかり。
うわ、取れない!というところに来て落としたら拾って、
「すみません、お手柔らかに」と言って投げ返せばいい。
球技と同じで、何度も繰り返せばうまくなる。
そうやってラリーを続ける中で、相手のことが分かってくる。
「いっつもヘンなとこに来るけど、この人の球をとるのは楽しい」とか、
「ラリー続くけど単調だな」とか。
上手い下手ではなく、合うあわない。
それも、自分の調子によっては変化球が楽しい日と、単調な方がありがたい時だってある。
「この人はだいたいこういう球筋の人」と判断されるのは、ただ事実そう、というだけでそこに価値は含まれないのである。
自分がコミュ障だという人には2通りあって、数が多いのは
「自分、苦手なんですみません」
と言って、球を受けずに転がしたまま立ち去る人。
どんな球でも取るからさ、一回打ち返してみてよ。
失敗することの怖さに、参加しないことを選ぶ。
いつまでたってもできるようにならないよう!
もう一方は、いい球だすのに、たまたま打ち返さない人に囲まれているせいで「自分の球筋が悪い」と思ってる人。
でもこっちのタイプはそれでも球を出し続けてくれるので、気が付いたら拾いに行ける。
あー、あとね、
「自分なんか」
という人たちは完璧じゃない自分を嫌いなように、他人のいかなる欠陥も許さないよね。
コロンブスの卵だけど、自分の至らなさを許せば、他人のそれも受け入れられるのか、その逆か。
生まれた以上、誰しも迷惑はかけるのよ。
お互い様でいーじゃない。
ははは。
あと何年かしたら、こちらの人種の方が「ところかまわず球を出す迷惑なだけの人」になりそうだけど。
でも、他人にも、自分にも大らかな社会の方が生きやすいよ、と思ってます。