「傷つける人」になるとき
前回の記事で、自由な大人であれば「傷つけられる」場面に遭遇することは回避できるだろうと書いた。
「自由な」というところが要点で、特殊な状況で自由を奪われている場合、あなたの自由を奪った者はあなたを傷つけることができる。
(ただ捕虜にでもなったのでもなければ逃走する可能性はいつも開かれている)
そして意図的に他人に害意を持たなければあなたは「傷つける人」になることは無い。
ただし、権力の不均衡がある場合は別である。
大人であれば、望むと望まざるとに関わらず圧倒的な権力を手にする場面がある。
それは子どもに向き合ったときだ。
家庭であれ、様々な教室であれ、大人は常に子どもに対して絶大な権力を持つ。
何故ならば、子どもは未成熟であるという一点において「自由に思考する」ことができない、つまり逃げ出すことが選択肢にないからだ。
この前観たたお芝居で、主人公の鍵になる台詞は最初、
「傷つけられたくない」、
それがつぎの場面で、
「傷つけたくない」
になる。
主人公とはリチャード三世で、子ども時代は生母に疎まれ、周囲にもさげすまれて育ち、成長した暁には暴君として悪逆無道のかぎりをつくす。
穿ってみれば、害意は強い者から弱い者へと順繰りに受け継がれていく。
ちなみに劇中のリチャード三世は、
良心によってかつて弱く、今は非道であった自分を丸ごと認め愛したうえで、連鎖を断ち切る意味もこめて自害してしまう。
権力とは持っていれば行使したくなるものである。
子どもの前に立った時、「傷つける」人になってはいないか、
常に自問自答を繰り返す。