「傷つける(つけられる)」という言葉の欺瞞について
以前から薄っすら引っかかってはいたが、ある舞台の台詞でそれが明確な疑問の形をとった。
「傷つけたくない」という言葉が意味するところは何か?
これを考えるとき「傷つける」という行為の向う側にいる相手からみてみると分かりやすい。
「傷つけられた」という場合をみてみよう。
まずこれには「攻撃された」時がある。
攻撃してきた人に悪意がある場合、その人は「危険な人」。
攻撃している人で自覚がない場合、その人は「失礼な人」。
もう一つの「傷ついた」という場面がある。
それは「図星をさされた」時である。
これによって傷つくのはあくまで自分の落ち度に端を発しており、
意図をもって図星を突く人は、「忠告」する人であり、
意図せずに図星を突く人は、あなたにとって「相性の悪い」人と言えばいいだろうか。
「傷ついた」というのはとても日本語らしい表現で、いかにも「相手のせいで」という風を装って責任を転嫁する言い方であり、実は「傷つけた」を受ける受動態ではない事がお分かりだろうか。
「傷つけた」を受けるのは「傷つけられた」なのだ。
こうやって分解すると、
「傷つけたくない」という言葉が、言いたいことの核心を表していないことが分かる。
「危険な人」や「失礼な人」に好んでなろうと思わなければ「傷つける」ことは避けられるのだ。
「傷つけたくない」と人が言う時、
それは「傷ついた」と相手に言われたくない、つまり、
「嫌われたくない」という意味なのである。
これもまた、自分の感情を引責せずに相手に転嫁する言い方である。
日本語では、こうやって行為の主体をぼかし、巧妙に相手に責任をなすりつける喋り方が可能なのだ。
腑に落ちないことがある時は、問題を分解してみると、新しい模様が見えてくる。
ただ、これに準じない「権力の勾配」という状況があって、それについてはまた今度。