ちりぬべき ときしりてこそ...
ツイッターで、2.5次元は男性に占有されてたビジネスだ、と呟いた。
そのあとで、消費者である女性が女性をのぞまないなら、もっと大きな問題だ、と考え、そしてはたとあることを忘れていたのに気が付いた。
まず、女性が女性を望まないかもしれない理由について。
一つ目は、「競争相手は少ない方がいい」
男性が男性にプロデュースされている女性を気にする風がないのは、「選ぶ側」と「選ばれる側」という意識の非対称があるのでは、というもの。
二つ目は、「女性性を消化できない」
ポジティブな女性のロールモデルを描けないので排除する、というもの。
ここで、忘れていた大事な事。
「科白劇 刀剣乱舞/灯 改変 いくさ世のあだ花の記憶」には細川ガラシャがいたではないか!ということ。
宝塚出身の俳優、七海ひろきさんが演じておられ、演技も脚本もものすごくよかった。
伝記では、のちのガラシャ、明智たまは才媛で、細川忠興に嫁いでむつまじく過ごすが、父明智光秀の謀反で一転、幽閉される。数年後、幽閉を解かれて細川家に戻ったものの、忠興は側室を囲っており、キリスト教に慰めを見出し改宗する。
その後、忠興が上杉征伐のため屋敷を空けた際石田三成に包囲され、身のいたずらを憚って介錯をうけ、自害した。
このたまをどう描いたか。
自害せず、生き延びたもう一つの世界に、窶れはてた忠興が追ってくる。
忠興は、
「たまが憎い、俺だけを見ずにキリストに身を捧げたあいつが憎い」
という執着を見せながら、二度までか三度目もたまを斬ることができない。
一方のたまは、自分に執着しながら向かい合おうとしない忠興を蔑みながらも、今度こそはという望みを捨てきれず、
「忠興様がにくい。憎くて、にくくて愛おしい」
という。
物語の冒頭でたまは花に例えられるのだが、才長けていたために花として従順に生きることもできず、また女であるために世に打って出ることも叶わずに、男が男であるが所以の駄目さに満ちみちた夫に疎まれ、
「鬼の妻なら蛇が似合いでしょう」
と慟哭する。
七海さんの「憎くて、にくくて」、と「鬼の妻なら」は本当に素晴らしくて、
「妻」をやったことがある人なら、心を持っていかれると思う。
愛する歓び、女であることの口惜しさ、男への蔑みと相反する憧れ。
ここで描かれた、たま、ことガラシャは言葉にできない「女性」であることの苦悩を体現していたと思う。
脚本と演出は男性である末満健一さん。
いわゆる美男子ばかりを集めた舞台に、突如女性を出演させて、ここまで書けることに脱帽。(このテーマが先にあって出演を決めたならなおさら)
思い返すと、随所に含みのあるセリフがあったなあ。
とりあえず、自分が好きなものに間違いはなかったというところまでたどり着いたけど、オタクの消費文化と倫理、とかジェンダーについてはまだまだ考える余地は沢山ある。
物語の効用
物語は自分の問の答えを求めに行くものだと思っている。
そういう意味で「ハイキュー!!」には、
成長し、成熟し、自分の足で立つことが、人生をよく生きるためのあり方だ、と確認しにいったようなところがある。
誰も病まず、依存せず、壊れない。
昨今めずらしい強い、つよい物語だった。
私自身は、あまり迷わない。めざすところも知っている。
ただ、今、時代が変わろうとしている。
今まで大事なことだと共有されていた価値観が崩れている。
「資本の増殖」以外は意味も価値も持たない。
そして、富むものも貧しいものも資本に魂まで包摂されていく。
そこで折れずに、抗い続けるために私には違う物語がいる。
なぜなら、今までやってきたことは周りの人達を幸福にしたけれど、私のやることは変わらないのに、この先だれにも喜ばれないかもしれないから。
ビックリハウスにいるようだ。
立っているところは変わらないのに、ぱたん、と背景が変わる。
「舞台 刀剣乱舞」にはこのトリッキーな感覚が凝集されている。
脚本、演出をされている末満健一氏は同時代人でもある。
上の世代と仕事をし、若い人たちを磨くなかで両者の心象を汲み上げ、どんな未来が可能だと考えるのか、わたしはそれを見届けたい。
「舞台 刀剣乱舞」のおもしろさ
「刀剣乱舞」という名前しか知らずに、5月の無料配信を観た。
舞台設定も、登場人物の名前もわからずに観るのだから、そこで何が起こっているのか、推測するだけで精一杯だった。
最初に引っかかったのは「主命とあらば」という言葉だった。
時期が時期で、不誠実な政府に業を煮やしているのに、無批判にこの登場人物が置かれているならたいしたもんだ、と思ったのである。
しかし、わりとすぐに作り手には含意があるらしいことが知れてくる。
では、何を言わんとしているのか読み取ろうと、主軸に据えられそうな人物を追っていっても、惑い、揺れ、変節し、そうやすやすと結論づけさせてはくれない。
結局、観客も登場人物と同じ様に、一抹の不安と一杯の疑問を抱えたまま取り残される。
物語はどこへ向かっているのだろうか?と、
考えさせるところがこの舞台の一番の面白さだと思う。
そこに拍車をかけるのが、役者の演技である。
微笑んでも目が笑わない三日月宗近。
役者の癖なのかと思いきや、かなり後に理由があることが判明する。
千秋楽の舞台挨拶で、登場人物と役者の境界を曖昧にするようなことをいう山姥切国広。
登場人物の心情の変化と、役者自身の変化が重なる山姥切長義。
メタな演出がますます物語に不穏な風を吹き込んでいる。
不安定な世界で、どう生きれば幸せだったといえるのか、そんなことを問いかけられているシリーズだと思う。
自己肯定感ってなによ
友人と何度も遡上に乗せて話し合っている。
最終的に自分を助けることができるかできないか、
助かると思えるか、思えないか、は自己肯定感の強弱に関わっているようだが、「自己肯定感」の強弱は生来のものなのか、後天的なものに由来するのか。
器質的には、脳の刺激を「快」として受けとめる範囲の大小に関わっているのではないか、という推測もしたけれど、これは専門的すぎて検証はできない。
「自己肯定感」なんか座りの悪い言葉だな。自尊心でいい気もするけど。
この強弱を決めるのは「経験の総量」ではないだろうか。
とにかくたくさん失敗をして、でも生きてる。
よたよた試運転している時に出会う、親切な人、厳しい人、変な人。
まあどんな事をしても、生き延びた、なんとかなった、という経験が「大丈夫」という自信に変わる。
自分だっていまだに思い出すと「うひゃー」って声が出てしまう事を山ほどしでかしている。でも、恥ずかしかろうが、悲しかろうが、納得できなかろうが明日は来る。
割と箱入りだった学生時代に比べて、箱からおっぽりだされたあとの方が強くなったし、試行錯誤の体験はなるべく小さいうちから積み上げたほうが絶対いい。
小さいうちのほうが転んだケガが軽く済むように、大きくなるほど失敗を受け入れるのは難しいから。
四角い部屋で、物理的にはなんの不自由もなく大きくなっても、そこに座り込んだままでは自尊心は生えてこない。
世界のでこぼこをもっと身体で感じなければ、強い根っこは育たない。
(ある側面ではってことになるかな。発芽しない種もあるとは思う)
受け身ってしんどい
たいしたことじゃないです。
ただ座って講義を聞くのってつらいのよ、という話し。
課題の本を読むのも同じで、自分で選んだ本は猛烈なスピードで読めるだけに遅々として進まぬページにいらいらして、本を閉じては歩き回ってしまう。
そういう性質が分かってからは、座学の講座などには極力参加しないようにしている。
学生時代はよく座っていられたものだと思う。
でも、高校くらいからは内職してたかな。
だから、子供たちが文句も言わずに6時間も席についていられることに、今は感心する。
ここ数年、騒いだり廊下に出て行く子は減って、そのかわりゾンビみたいになってるけどね。それでも凄いことだとおもうなあ。
休み時間になると気が狂ったような雄叫びをあげているけど、そりゃそうだよね。
なんで?とかどうして?って討論できるディスカッション形式や実際に手を動かせるワークショップで何かを学ぶのは好き。
大人になってよかったことは、自分にあったものを選べること。
今、ちょっとダンスのステップを覚えたいと思って動画を見ると、色んな人のレッスンが観られる。
踊り手の左肩が画面の手前にあって、実際の音楽をかけてカウントを取ってステップを踏むのを延々と流してくれるのが一番わかりやすい。
音楽無しとか正面から、だと永久に理解できなかったりする。
どんなことでも正解は一つじゃなくて、それぞれに見合うものがある。
上手く行かなかったらやり方を変えてみる。
子どもたちにそれをつたえられればな、と思います。
そこにいるだけで怖い
もうだいぶ前になるが、私の友人は、私の目の前で子どものクラスのお母さんから
「あなたが側にいるだけで怖いんです!」
と言われたことがある。
二人して面食らって、
相手より自分が弱いと思ったら何をいってもいいのか?
と首を傾げたものである。
この件はずっと心にかかっていたのだが、最近娘との会話の中で整理がついた。
白米を偏愛する娘が「どうして米の国なのに給食がパンと牛乳だったの~」と問いかけて来たので、
「もともとは戦後、GHQの政策で乳製品と小麦の輸出先として消費を定着させるために考えられたことだから」
と答えた。
これに対して娘は、
「ままってほんとムカつく!そんなこと聞いてないし。なんで普通に、そうだね~とか相槌打てないの?」
という。
「そんな適当な相槌打つなら話しをする意義がないじゃん。ままは考えたことは言うよ?」
「ままが会った100人のうち98人は絶対ままのこと嫌いだよ」
「2人と意気投合できたら、98人に適当に合わせられるより良くない?」
「サイアク!」
と続いた。
(もちろん私も大人なので外ではトーンダウンしているし、自分の子どもだからこそ容赦ない部分はある。それにこの手の言い合いは既に娘との間で定番になっている。)
つまり娘は、コミュニケーションに際してノイズを出すな、と言っているのだ。
予測しない返答が帰ってくるのを嫌がっているとも言い換えられる。
そして次のようなやりとりを考えると、もっと見えてくるものがある。
私が彼女の意図しない返答をすると決まって、
「意地悪!!」
と返されるのである。
なぜ意地悪になるのか?と聞いたところ、
「言ってほしいことを言ってくれないんだも~ん」
なのだそうである。
どうやら自分が受容できないコミュニュケーションをする人は「害悪」であり、排除してもいい、という通念ができあがっているらしい。
冒頭の例に戻れば、攻撃は最大の防御である、かな?
クレーマーなんかはそこを利用して弱者の仮面を被っていることが大概である。
でもこれは考え直したほうがいい。
明らかに、相手を傷つける意図をもって発された言葉は意地悪、悪意である。
それ以外はただの意見の違いである。
指摘や注意、叱責もこちらに含めたい。
それによって傷つくかどうかは個人差だから仕方ないが、相手に「悪意がある」と勝手に上乗せすると辛くなるのは自分なのだ。
という訳で冒頭の一件にいま返事をするとしたら、
「そりゃあすんません。でも存在するのは致し方ないもんで。あとはあなた個人の問題ですわ」
となる。