「腐女子」の刻印は消えない

最古に属する部類だと思います。数十年!ぶりに甦った「萌え」にびっくりしたので、とりあえず自分のために分析した事を置きます

個人主義の罠

ひっかかっていたことに答えがでた気がするので書いてみる。

 

前の投稿とこの稿はブログの趣旨からははずれてるかもしれないけれど、ところてん式に思いついたことは文章にして追い出さないと、次に行けない。私は早くSSの続きが書きたい。

 

少し前まで、移民のコミュニティは子育てがうまかった。

正確を期すと、コミュニティが密だった事が子育てに良い影響をもたらしていた。

 

少なくとも毎週末、どこかに集まり、食事を共にし、おしゃべりをし、作業を共にした。

母親は孤立せず、子供達は異年齢で遊び、日本語を覚えるチャンスがあった。

 

それがいつごろからか、私は携帯、特にテキストメッセージの普及に伴ってだと考えるが、集まる機会が叙々に減ってきた。

昔は会いに行かなければ話は出来なかった。

だからなんとしても時間をあけて、皆に会いに行った。

集まりというのはいいものである。皆がお互いのために時間をあけているので、例えば、相談する側もされる側も対称なのだ。

 

けれどそれが電話に置き換わると、非対称になってしまう。

相談する側に気軽さが無くなって行くのである。

それが今の、母親と子供の孤立、日本語学習の困難の一因であることは確実だ。

 

また、これは実感だが息子と話していると、冠婚葬祭を時間の無駄と捉えている。

私はコミュニティへの帰属を確認する貴重な機会だと思っているのだが、その差異はどこからきたのか。

 

それは、私の子連れでのコミュニティへの関わりの悪さだった。

コミュニティに熱心に関わることは、そこに時間を捧げる価値があると子どもに知らしめることである。けれどその時私は、子供に自分のしたいことをしろと教えてしまった。

 

個人主義はちょっと先の未来で自分たちの首を締めることがあると言うことだ。