「ひれふせ、女たち」
読んでいる本について、考えたことをとりあえず書き付けます。
この先は、ミソジニーという言葉にピンとくる方におすすめします。
(用語の説明などを省くので)
読んでいる本はこれ。
およそ10年前、「女ぎらい」(上野千鶴子 著 2010年 紀伊國屋書店を読んだときには意識していなかったのだが、女性と男性という二項対立がもう無理なのではないかと思う。
クィアの出現で二分できないという事もあるのだが、一番に「想定されている男性」が男性のごく一部にしか当てはまらないからだ。
確かに、この本で言われる「男性」は、自分の周りでは60代前後、または管理職以上にはよくみられる。でも、同年代の男性は大抵、私と同じように、もしくはそれ以上に搾取され、狼狽し、自信を失い、自己像を肯定的に保てない。
しかし、「男性」を「権力」または「パワー」と読み替えれば、語られる内容が府に落ちる。
不平等は常に強いものから弱いものにもたらされる。
いわゆる「フェミニズム」周辺の言説に触れたとき、「白人の優越性」、「高等教育を受けている」、「中流以上の出身」など、つまりエスタブリッシュメントの意識を強く感じてしまうのである。
その視点からこぼれ落ちているものがあまりにも多い。
男女の闘争ではなく、いわゆる「パワー」をめぐる闘争にしか見えないことがあるのだ。
そして私自身も含めて、優越性には指摘されるまで無自覚なことが多い。
あらゆるマイノリティが可視化されつつある今、フェミニズムは「男女」の区切りから抜け出して、「権力」と戦うものになるのか、縄張り争いに終始するのか、少しだけ気になっている。