本を読んでいるのか
仕事柄、
「本が好きなんですか?」とか、
「読書が好きなんですか?」
と始終聞かれる。
そのたびにいつも逡巡する。
本は好きだけど、文学好きってわけじゃないから。
大抵の人が「本」といった時に想定しているのは「小説」だという気がする。
私は本が好きだけど、それは調べれば知りたいことが書いてあるからだ。
それが物語に書いてあることもあるけれど。
そして一番好きな読み物は「取説」なんじゃないかとおもう。
「書いてあるとおりにやったらできるのか?」
と必死に読解するのが楽しい。
そんなわけで、服を縫ったり、編んだり、パンを焼いたりなんでも自分で作ってみることの根源には、
「取説を読むのが楽しい」
という動機がある。
それはトラウマなのか
ちょっと前に、友人の息子氏と二次創作のカテゴリーについて話したときに、
男性向け界隈では「寝取られって定番なんですよ」というので、
ああ、自分と彼女が上手く行き続ける想像が及ばないから、
誰かに盗まれるなら、彼女も恨まなくていいし、
自分が彼女をダメにするところも見なくていいもんね、
と答えたら、
納得いただけた。
二次創作(二次に限らずとも)って、良くも悪くも自分の未解決なところも含め、色々表出しちゃうよね、という話。
そしたら隣で聞いていた友人が、
「あなたは全然そういう人じゃないのに、書くものは爽やかだよね、おもろ!」(大意)
と突っ込んでくれたので、しばし考えてみた。
私が書いているのは、
今の自分自身であるために置き去った、
無邪気さや、かわいさ、純粋さ、
なのだとおもう。
ホワイ・ドラァグ
どうしてドラァグに惹かれるのか。
これもかなり昔から身に備わってる。
ボーイ・ジョージに衝撃を受けたのが小学校中学年だったから。
でも当時ドラァグというくくりはまだ知らなくて、
「プリシラ」とか「三人の天使」くらいからかな。
その前に「蜘蛛女のキス」も観てた。
最近はNETFLIXに「ル・ポールのドラァグレース」がある。
異端になることがわかっていても、過剰に装って自分を表し、かつなにかを風刺している。もしくは何かに強くノーを突きつけている。
そしてなにより美しい。
強く、自分自身であることを選ぶ。
すごく自由で、わたしはこう生きることしかできない。
そうあるために対価は払い続けている。
大勢多数の嘲笑と、無理解と、孤立。
でも、少しの理解者が、受けとめてくれる友だちがいるから呼吸が楽だよ。
そして光輝くディーヴァが、わたしの行く道を照らしてくれる。
みんな深い淵に挟まれた細い道を行くのだ。
この本、裏表紙の写真がすっごく好き。
ドレスからポーズからもちろんご本人も好きすぎ!!
悪い方のシナリオ
前回の続き。
一番簡単に想像できる悪いシナリオは、
コロナ禍で倒産する会社をグルーバル企業が買い上げること。
倒産を理由に従業員を解雇し、雇い入れる時は個人事業主として契約する。
最低賃金は保証されず、各種福利厚生からも見放されるということだ。
同じように債務で首が回らない各国政府にも国家事業のリリースを求め、
公共サービスが民間に売り渡されることになる。
英国では既に1979年、マーガレット・サッチャーが英国首相として同様のことを政策として行っている。新自由主義の始まりだった。その結果が現在にどう響いているかはこの先を考える上で示唆に富んでいる。
上野千鶴子が「国境は越えられるが階層は越えられない」と述べていた。
意識しないと見えないものがある。
私自身も首都を離れ、子供を公立小学校に放り込むまで貧困を目にしたことはなかった。
家庭生活が存在しないことで、安定した成長をもぎ取られ、ひらがなも正確に書けず(拗音・撥音が特に困難)、繰り上がりの足し算もできないまま小学校を卒業し、中学校の段階で不登校から引きこもりになる。
もう少しできても中学年程度の漢字があやしく、九九を正確に覚えていない。彼らは高校入学は果たしても高確率で退学していく。アルバイトが続けば幸運である。
少子化が危惧される中で、2割以上の子供が早い段階で社会からこぼれ落ちている。
私の周りにはいない、のではない。
ただ見えないだけなのだ。
これからの話し
端的にいうと、「感染による致死率と、各国の政策による今後のダメージは引きあうのか?」というのが当初からの疑問。
何度も引用しているけれど、ジョンホプキンス大のデータがこちら。
ロックダウンは経済的体力がある層には生活が不便になる程度のことだが、日銭で生きている層には大打撃である。
長期化すれば体力の少ない人から貧困に滑り落ちる。
19世紀から続く国民国家的な考えで、国から何らかの救済措置があるだろうと考えるだろうか。
そうは問屋が卸さない。
この資本主義の末期、国家ほどお金がかかり、利益の出ない経営はないのだ。
( この辺が分かりやすい読み物だと思う)
冒頭の問いに対する答えは、
「もちろん引き合わない。でも市民がどうなろうと知ったこっちゃない」
である。
死んでしまえば終いである。
これからを、生き抜く方が大変だ。
みなさん、覚悟はいいですか?
ロマンスとアロマンス
友人に、
「あなたがノンセクシャルなのはわかる。でもアロマンスというイミがわからん」
だから解説せよと言われた。
アロマンスはどんな性別を対象にしても恋愛をしない、単数であれ複数であれカップルを指向しない。
でも友人が観察するところによれば、萌え散らかしている今の私は、
「症状が恋愛してるのと同じ。ロマンスがないどころかそれしかないじゃん」
ということらしい。
ありがたいお言葉である。
微塵もオタク要素のない恋愛強者がそういうなら、そうなのかな、と思う。
「バラ色になって、楽しくているんなら、アロマンスなんて自己規定いらないよ」
というのが彼女の考えで、私も別段それでいいかなと思う。
そして「カップルを指向する」という部分が、非常に欧米的ってことに気づく。
まあ、ユダヤ教、キリスト教、イスラーム教は夫婦が社会の基礎単位として規定されているからなんだろう。
それに比べて、日本(もしかしたらアジアの、どこかまで)の文化は指向する相手が「人間」じゃなくてもあたりまえに受け入れてくれるんだね。
私は自分のことを考える時に、便利なのでアセクシャルを採用したけれど、規定することでかえってしんどくなるなら無しにしたほうがいいと思う。
上手いこと言ってる歌があったので貼り付け。
”Romance is not in my bone”なんて言ってみたい。
Zedd, Kehlani - Good Thing [Music Video] (Alternative Cut)
レストランのいい席も自分で予約できるし、会社も好調。
いい人にめぐりあってないだけよ、なんていわれるけど夢は全部自分で叶えたから、
”いい人”なんていらないのよ。
これが多分、一神教圏のアロマンスなのではないかと思う。