「腐女子」の刻印は消えない

最古に属する部類だと思います。数十年!ぶりに甦った「萌え」にびっくりしたので、とりあえず自分のために分析した事を置きます

なぜ「腐向け」なのか

なぜ腐向けやBLが好きなのか?

その問いは「〜のタイプの」という副詞を付けないと本当は機能しない。

今やあらゆるタイプの話があるし、嗜好の問題だから個人によって答えは違うはずだから。

 

ここでは私個人の話をします。

 

よく腐向けやBLは女性向けのポルノだと言われるけど、それもあくまでも一面。

確かに今は凄いビジュアルのものが一杯あるから目立つけど、レディースコミックじゃいけない理由にもなってないしね。

 

私がこの話をするには欠かせないのがあります。

それは「えみくり」。

90年代の同人サークルで、2次創作もやってらっしゃったけれど、夏と冬の年に二回出されるオリジナルのBLをそれこそもう貪るように読んでいました。

毎回、転校生とか、病弱、とかテーマが決まっていて、漫画をえみこ山さんが、小説をくりこ姫さんが書いていた。

もうひとつ、「男の子どうしのリボン」を標榜していて、これは今で言う「全年齢向け」ということになるかと思います。

 

何がよかったのかというと、傷ついた人、トラウマを抱えた人が、誰に出逢って、どんな経験をしたら前に進めるようになるのか、ということを徹底して突き詰めていたこと。

 当時は何のことか分かりませんでしたが、DV、性的虐待、貧困という重たいものから、HSP、母親が新興宗教の教祖で、教団から逃れてくる話すらありました。

 

斎藤学アダルトチルドレンに関する本を出す1996年の数年以上も前のことだから、あの慧眼はいったいなんだったのだろ。

 

私が求めていたのは、対等な人間関係、分かりあえること、癒やし、癒やされることがあるという希望でした。

そして、なぜそれが男女ではなく、男同士の物語として描かれていなかればならなかったのか。

 

それは女に生まれるということがすなわち、社会的死だったからです。

女性であることは絶望だった。

 

ファンタジーの中で絶望は排除されなければならなかったのです。

もちろんお話の中にいるのはリアルな男性ではなく、女性性を剥ぎ取った自分たちの理想が仮託されているのだということは薄っすら分かっていました。

 

だから、話がちょっと逸れますが、「みなみけ」や「らき☆すた」が出てきたとき、

「あ、男の子たちも生きにくくなってきたんだな」

と思いました。

 

さて、話を戻して「社会的死」について説明します。

これは、女性は「女」という属性のみで扱われ、個人の人格を認められないという意味です。

 

わかりやすくたとえ話をします。

 

学生の頃、サークルにバックパッカーをやったり、面倒がらずに議論ができたりする男の子たちがいました。

当時バブルの全盛で、みんな軟派に遊びまくっていた頃だったので、ちょっとは骨がある方だと思っていたのですが、ある時好きな女性のタイプの話になったときに、

みなが口を揃えて

「帰ったら三指揃えて出迎えてくれるような娘がいいな」

と言うわけです。

 

お酒を飲もうが、議論をふっかけようが、友人としてはつきあえるけれど、そうすると「女性」の範疇には入らない。

 

こういうのもあります。

「ブス」と面罵されたことはさすがにありませんが、

「可愛げがない(=従順ではない)」なら、友人のみならず教師から上司から、何度言われたかしれません。(男性のね)

 

つまり私の場合は、自分自身でいたかったら、社会的に「女性」であることを諦めなければならなかった。

 

「女性」を捨てるか、「自分自身というアイデンティティー」を捨てるか。

 

この二者択一が、私を「腐女子」たらしめた理由です。