娘は何を求めているのか
きっかけは、
夜、自室でイヤホンを入れて踊りまくっていたところを娘に咎められ、
「楽しそうな人に我慢できない人イヤ!いい歳してなにしてんの、とかウルサイ!!」
と、私が友人のLINEに吠えたことだった。
この先はLINEのやりとりを抜き出してみる。(口の悪いところは編集あり)
「言ってやんなさい、そのまま。人が楽しそうにしてるのが羨ましいんでしょ!って。言ったあと、とことん付き合うエネルギー要るけどね」
「その時間が勿体ない!!編み物する~」
「でも、それが勿体ないって、いつかやらなきゃいけない、それこそ子育てよ…」
「今はまずい。もともと休校でエネルギーのやり場がないから」
「今しかできないとも言う。ま、今日の今じゃなくても。
何となくだけど、そして決してあなた悪くないけど、彼女にとっては仕事が忙しくても、家にいる時間が増えても、どっちにしろママはいつも暖簾に腕押しなんだな、って感じがする」
「わからないでもない」
「かわされちゃうっていうか、もちろん押し方が悪いんだけど」
「お菓子焼いてあげると機嫌が良い。彼女のために時間かけてるから」
「彼女が幼いからそういう満足の仕方しか伝えられないんだろうけど、本当は時間でもない気がする。
いつか、どうしてそういう風に接するのか、ママがどんなタイプの人間で、どんな風に好意を伝えるタイプで、あなたとママは違うっていうことを全部話せるといいね」
「去年やりあったときに大分話せたんだけどね。ただ、頭で分かっても納得できないものはあろうよ」
「それを何年もやるのよー。何年も何日も、それこそ時期によっては毎日のように、やるの。そんで、抜けるのよ。振り返ってみるとね」
「そこかもだけど、私は肝心なことは何か言ったら後は染み通るまでじっと見てる。睨んでるとも言う。向こうも言われたことは分かってるから。で、抜ける」
「厳しいね、きっとそっちの方が。
子どもって、最初は自分を制御できないじゃない、自分を。
なのにあなたもう一人前の人間よね、だから教えた後は見てるわよって、厳しいな、と。理性的だ、すごく」
「そうね。小中まではつかみ合いもしてきたけど、今は体格でも体力でも敵わないし、勘弁してくれ~とは正直思う。だからそこだってなると、うーん」
「心のつかみ合い?あるいは”父的”よね。(概念としての)母は、もう少し巻き込まれながら、子どもを引き剥がしていく、というか。それを父は見てる、という。
あなたの娘は概念の母を求めているのでは?」
「うちは一人二役だし。夫は叔父。母いない(笑)」
「一人二役やるとして、やっぱり子どもには母が重要なのよな、概念として。
あなたのところは、あなたの母も難しいところあるだろうしなあ(失礼)。
概念として子どもが安心するタイプの母ではないと思うの、良し悪しではなく」
「そうね、まさに」
「それで、あなたは色々と学んで乗り越えていった(なんならまだ旅は続いている)。
そこで、自分が母になった。で、娘がまたこれが非常に概念としての母を求めるタイプ。ここに、何か課された命があるな」
と、友人は私に宿題を課してくれた。
この会話の意味を理解するには、娘と私と母のことをもう少し詳しく話さなくてはならないと思う。
宿題の応えを探しながら、しばらく「母子関係」のカテゴリーにこのことについて綴っていくつもり。
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野次以外のコメントはできる限り承認して、お返事をしますので、
ご意見とか聞きたいことがある方はどうぞお気軽に足跡を残してくださいませ。
わたしは直截だけどイジワルではないと思う。たぶん。
母子関係とトラウマ
友人とお喋りを堪能して、そのなかからある企画が立ち上がった。
私の母子関係を言語化することで、何かの学びが得られるのでは無いか、というものだ。
とりあえず、わたしはあまり編集せずに思いつた順に「母子関係」のカテゴリに素材を放り込む。
それに対してコメントを使って彼女にツッコミを入れてもらう。
私はコメントを念頭に次を書く、というものだ。
彼女と私はいまある共通した問を持っていて、その答えを探す旅でもある。
その問とは、
「自分を救うことができるかどうか、最後の鍵は何なのか?」
である。
きっかけになった会話は次に上げる。
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野次以外のコメントはできる限り承認して、お返事をしますので、
ご意見とか聞きたいことがある方はどうぞお気軽に足跡を残してくださいませ。
わたしは直截だけどイジワルではないと思う。たぶん。
死ぬのはこわくない
さっきTwitterにつぶやいて、自分の中でももうちょっと言語化してみたいのでここに書く。
この瞬間に死んでも後悔はない。
それは、やりたいことが無いとか、家族友人に未練がないとか、そういうことでは全くない。
やりたいことはもりもりあるし、人間関係も恵まれていてもっと深めていきたい。
でも、そもそも死は「いまきりがいいので来てください」という風に訪れるものではなくいつでも突然である。
その意味において、私は自分のスペックの許す限り努め、容量以上に毎秒を楽しんでおり、こんなはずじゃなかった、言わずにすむ選択を繰り返している。
そして私は死が祝福だと思っている。
唯一誰もが平等に持っている運命。
20代の頃、6年お付き合いしていた人が突然亡くなった。
心筋梗塞だった。
前触れもなく、私は職場からいつも通りに昼休みに電話をかけ、彼の携帯に応えた友人からそれを知らされた。
大事な人を失った衝撃の向こうで強く思ったのが、彼には時が来たのだ、ということだった。
人は死のうと思って死ねるものではない。
自死も、時が来なければ成功しない。
死はどこか彼方から与えられる贈り物だ。
そう思わないのであれば、自分で死期が決められると仮定して想像してみればいい。
それがどれだけ重い決断であることか。
だから、いつでもその贈り物を受け取れるように、今日も生きている。
萌えとホルモン
ここに書いていいものか少し迷ったけど、
記録のために残しておく。
いまじつはプレ更年期で頻回生理が起きている。
これは、エストロゲンやプロゲステロンの分泌が少なくなったことで、脳が卵巣を刺激するために起こるらしい。
頻回生理が始まったのと沼落ちした時期がだいたい重なっており、
つまり何がいいたいかというと、
もしかするとちょっと普段よりコンスタントに生産されるホルモンと、
自分の萌には相関関係があるのではないかということ。
そしてわたしが危ぶむのは、ホルモンが生産されなくなった時に、
「萌え」が消滅するのではないかということなのだ。
閉経後も元気な方はもちろんいくらでもいる。
でも自分はもともとアセクシャル。
この推論が正しい可能性はゼロではない。
悪意とは
いまだかつて思春期の娘ほど、
質も量も圧倒的な罵詈雑言をひねりだし、ぶつけてきた人はいない。
いまでも時々、不快にさせることだけを意図した言葉を叩きつけてくることがある。
それでもこれだけ間近で観察しているとおもしろいことがわかる。
私に悪意をむける直前に、かならず彼女はもやんと気分が下がっているのである。
買ってきたおかしが気に入らなかった。
昼ごはんを用意してくれなかった。
ごはんが足りなかった。
買い物に同意してもらえなかった。
たいていが食べ物絡みというのがかわいい。
息子も中学生の頃、お腹を空かせて帰ってくると物凄~く凶悪だった。
直接残念だったことに文句を言ってくるわけではない。
本人も理不尽な腹立ちで、あっという間にやり込められると分かっているからこそ、全く関係のない、こちらの弱点だと思われることを攻撃してくる。
こういう経験から、
悪意というのはどこまでいっても発信した人の問題である、
と考えている。
満たされないのか、不幸なのか、不器用なのか。
構ってあげるかどうかは、その人との関係の深さで決めている。