自己肯定感ってなによ
友人と何度も遡上に乗せて話し合っている。
最終的に自分を助けることができるかできないか、
助かると思えるか、思えないか、は自己肯定感の強弱に関わっているようだが、「自己肯定感」の強弱は生来のものなのか、後天的なものに由来するのか。
器質的には、脳の刺激を「快」として受けとめる範囲の大小に関わっているのではないか、という推測もしたけれど、これは専門的すぎて検証はできない。
「自己肯定感」なんか座りの悪い言葉だな。自尊心でいい気もするけど。
この強弱を決めるのは「経験の総量」ではないだろうか。
とにかくたくさん失敗をして、でも生きてる。
よたよた試運転している時に出会う、親切な人、厳しい人、変な人。
まあどんな事をしても、生き延びた、なんとかなった、という経験が「大丈夫」という自信に変わる。
自分だっていまだに思い出すと「うひゃー」って声が出てしまう事を山ほどしでかしている。でも、恥ずかしかろうが、悲しかろうが、納得できなかろうが明日は来る。
割と箱入りだった学生時代に比べて、箱からおっぽりだされたあとの方が強くなったし、試行錯誤の体験はなるべく小さいうちから積み上げたほうが絶対いい。
小さいうちのほうが転んだケガが軽く済むように、大きくなるほど失敗を受け入れるのは難しいから。
四角い部屋で、物理的にはなんの不自由もなく大きくなっても、そこに座り込んだままでは自尊心は生えてこない。
世界のでこぼこをもっと身体で感じなければ、強い根っこは育たない。
(ある側面ではってことになるかな。発芽しない種もあるとは思う)
受け身ってしんどい
たいしたことじゃないです。
ただ座って講義を聞くのってつらいのよ、という話し。
課題の本を読むのも同じで、自分で選んだ本は猛烈なスピードで読めるだけに遅々として進まぬページにいらいらして、本を閉じては歩き回ってしまう。
そういう性質が分かってからは、座学の講座などには極力参加しないようにしている。
学生時代はよく座っていられたものだと思う。
でも、高校くらいからは内職してたかな。
だから、子供たちが文句も言わずに6時間も席についていられることに、今は感心する。
ここ数年、騒いだり廊下に出て行く子は減って、そのかわりゾンビみたいになってるけどね。それでも凄いことだとおもうなあ。
休み時間になると気が狂ったような雄叫びをあげているけど、そりゃそうだよね。
なんで?とかどうして?って討論できるディスカッション形式や実際に手を動かせるワークショップで何かを学ぶのは好き。
大人になってよかったことは、自分にあったものを選べること。
今、ちょっとダンスのステップを覚えたいと思って動画を見ると、色んな人のレッスンが観られる。
踊り手の左肩が画面の手前にあって、実際の音楽をかけてカウントを取ってステップを踏むのを延々と流してくれるのが一番わかりやすい。
音楽無しとか正面から、だと永久に理解できなかったりする。
どんなことでも正解は一つじゃなくて、それぞれに見合うものがある。
上手く行かなかったらやり方を変えてみる。
子どもたちにそれをつたえられればな、と思います。
そこにいるだけで怖い
もうだいぶ前になるが、私の友人は、私の目の前で子どものクラスのお母さんから
「あなたが側にいるだけで怖いんです!」
と言われたことがある。
二人して面食らって、
相手より自分が弱いと思ったら何をいってもいいのか?
と首を傾げたものである。
この件はずっと心にかかっていたのだが、最近娘との会話の中で整理がついた。
白米を偏愛する娘が「どうして米の国なのに給食がパンと牛乳だったの~」と問いかけて来たので、
「もともとは戦後、GHQの政策で乳製品と小麦の輸出先として消費を定着させるために考えられたことだから」
と答えた。
これに対して娘は、
「ままってほんとムカつく!そんなこと聞いてないし。なんで普通に、そうだね~とか相槌打てないの?」
という。
「そんな適当な相槌打つなら話しをする意義がないじゃん。ままは考えたことは言うよ?」
「ままが会った100人のうち98人は絶対ままのこと嫌いだよ」
「2人と意気投合できたら、98人に適当に合わせられるより良くない?」
「サイアク!」
と続いた。
(もちろん私も大人なので外ではトーンダウンしているし、自分の子どもだからこそ容赦ない部分はある。それにこの手の言い合いは既に娘との間で定番になっている。)
つまり娘は、コミュニケーションに際してノイズを出すな、と言っているのだ。
予測しない返答が帰ってくるのを嫌がっているとも言い換えられる。
そして次のようなやりとりを考えると、もっと見えてくるものがある。
私が彼女の意図しない返答をすると決まって、
「意地悪!!」
と返されるのである。
なぜ意地悪になるのか?と聞いたところ、
「言ってほしいことを言ってくれないんだも~ん」
なのだそうである。
どうやら自分が受容できないコミュニュケーションをする人は「害悪」であり、排除してもいい、という通念ができあがっているらしい。
冒頭の例に戻れば、攻撃は最大の防御である、かな?
クレーマーなんかはそこを利用して弱者の仮面を被っていることが大概である。
でもこれは考え直したほうがいい。
明らかに、相手を傷つける意図をもって発された言葉は意地悪、悪意である。
それ以外はただの意見の違いである。
指摘や注意、叱責もこちらに含めたい。
それによって傷つくかどうかは個人差だから仕方ないが、相手に「悪意がある」と勝手に上乗せすると辛くなるのは自分なのだ。
という訳で冒頭の一件にいま返事をするとしたら、
「そりゃあすんません。でも存在するのは致し方ないもんで。あとはあなた個人の問題ですわ」
となる。
スペックをみきわめる
今、Choose LIfe Projectの「#検察庁法改正案の強行採決に反対します」の5月15日の配信をみながら、映画「タゴール・ソングス」に触発されてちょこっとインドのことを調べていた。
イヤホン2本で、左右で交互に違うものを聴いていたら疲れてしまったので休憩。
20代のころ、やりたいことも行きたいところも山盛りで、その行き着いたところで活躍するする人を見ては、なんで自分はそこに到達する能力がこんなにも低いのだろうと歯噛みした時期があった。
集中力もすぐ途切れるし、こんな役立たずじゃ存在意義がないじゃん!などと思いつめていたらアレルゲンが特定できないアナフィラキシーを何度か起こした。
その時出した結論がある。
人にはみなそれぞれのスペックがある。
「誰か」のようにはなれないし、誰もが一番になるわけじゃない。
自分のスペックを見極めて、足りないところ、欠けているところを認めなきゃ駄目だと。
得意なところを伸ばすというと、特に学生時代は発想が教科にしぼられたり、大人だって仕事に限定されたりしがちだけど、みんな実は他人に長ずる能力を持ってたりする。
ただ、その能力がお金にらないから軽視しがちなだけ。
でもその能力は、自分が愉しく生きていくのにはすごく役に立つの!!
自分は例えば「あれもこれもそれも興味がある」というのを持っている。
周りからは「あれこれ手を出さないで、一つに集中して極めなさい」と散々!!言われた。
でもあれもこれもとひろげた触手がやわらかい網になって私を受け止めてくれている。
おまけみたいに中年になってから「雑学程度」がやたら役に立つ仕事についたし。
それを喜んでくれる人がいるのが最高。
寝てばっかの息子も、焦りがないのもひとつの力だなと思う。
生きること全体に視野を広げれば、そんな便利な能力の一つや二つ、ちゃんと備わってるのが分かる。
他人に認められる必要はなくて、自分がその恩恵にあずかればいいんだよ!
スムーズなのはいいことなの?
あった!
頭の隅に引っかかっており、どこかでちゃんと読んだ気がすると思って探しました。
ブログ「シロクマの屑籠」のシロクマ氏の文章を引用させていただきます。
コミュニケーションに際して、ノイズを避けること・フォローやブロックやアカウントを使い分けて純度を高めること・病原体のたぐい授受しないことは、定めし時代の要請なのだろう。だからこれを否定するのは私には難しい。 だけどこれは、従来のコミュニケーションから遠く隔たった、それこそ数世紀前の人がコミュニケーションとして体験していたものとは似て非なる何かだ。コンビニのレジでのやりとりは、ある意味、コミュニケーションであると同時にディスコミュニケーションではないだろうか。売買については、確かに伝わっている。だが、売買以外については伝わっていない。というよりできるだけ伝えないようにしているのがコンビニのレジでのやりとりではないか? 今、私たちがコミュニケーションと呼んでいるものは、特定の用途や話題について伝えると同時に、ノイズや感染症を遮断する。同時に、思わず伝わってしまうかもしれない何かまで遮断してしまい、伝わらなくなってしまう、ある種の可能性の狭さをはらんでいるようにも思う。
ノイズを避けるコミュニケーション──言葉も、においも、ウイルスも - シロクマの屑籠
「コミュニケーションであると同時にディスコミュニケーションではないだろうか」
その通りだと考えている。
コミュニケーションとは単なる情報の伝達のことじゃない。
ここでいわれているノイズも含めて、生の、意図しない何かも授受することじゃないかと思っている。
どんなになりたくたって、人間は機械じゃないですから。
代謝しながら成長し、老いる。
働き盛りの十数年ならもしかして覆い隠せるかもしれないけれど、
排泄するし、乱暴に扱えば壊れる。身体性は否定しきれない。
そんなことをいう自分は、場所によってはノイズが多くて嫌がられるし、でもそのノイズをすごく必要とされる場所がある。
子ども達のところだ。
ノイズを遮断しようとすることは、子ども達の生きようとする力をもぎ取るに等しい。
もしかしたら家庭では、聞き分けのいい、良くできた子かもしれない。
でも彼らがどれだけ必死で自分を抑え、無になろうと努めていることか。
彼らがどんなに生のコミュニケーションを、もしくは「愛情」と呼びかえられるかもしれない、を求めて縋りついてくるか、親は知らない。
かれらは一瞬で「ノイズを発する」大人を見分ける。
現場でも多数派ではないけれど、幾人もの同志が比喩ではなく両腕に、両膝に子ども達を抱えて働いている。
身体性を伴ったコミュニケーションを注いでやらないと子供は栄養不足で枯れていく。
それでね、クリーンなパッケージに包まれた”コミュニケーション”を望む人は、かつての傷つき枯れてしまった子ども達なんじゃないかと、薄っすら感じているのです。
追記:引用させていただいたブログ記事を通して読んで、友人の慧眼にあらためて嘆息する。
ところで、なぜ突然ウィルスの話かというと、上のコラムを勧めて読んだ友人が、 「あなたってさ、ウィルスみたいだよね」 という賛辞を送ってくれて嬉しかったから!!
ウィルスってなあに - 「腐女子」の刻印は消えない
「かがみの孤城」
人は、そこにあるけれど語れないことを物語にしてきた。
マイケル・ギルモアの「心臓を貫かれて」を読んだとき、
初めてその仕組を体感した。
この手法は山岸凉子もよく使っている。
家族間の精神的虐待や性的虐待、様々な病理。
1,980年当時はまだそれを認める明確な意思が社会に存在せず、
彼女は「ホラー」という形でそれを炙り出していた。
翻って2010年辺りから、家族内でも虐待が起こり得るということが社会の共通認識として成立し、子供の本の中でも触れられるようになってきた。
妹を舐めるように可愛がり、自分を決して愛さない母親との葛藤。
口うるさく娘に干渉し縛りつける母は、娘時代に祖母に同じようにされていたという連鎖。
この2冊は「虐待」とまでは言わないが、親が「毒」になり得ることを提示して、それでもなんとか着地点を見つけて語り終える。
いま読んでいる「かがみの孤城」の主題はいじめである。
けれどこの本のうまいところは、そうと言わずに、いじめの遠因が大人にあることを示唆しているところだと思う。
ひどい侮辱を受けた時に、
「あなたに私の尊厳を傷つける権利はない!」
と言えないのは、一番身近な大人に、
「あなたは一人の人間であり、愛され、尊敬されるに値する」
と教えられて育っていないからである。
それどころか、
「わたしの気にいるようにしなければ、あなたを愛さない」
と刷り込まれている。
こんな風に育てられたら自分のために闘うことはできない。
そして「誰からも気に入られ」ようとして自分を失くし、
最後は、
「こんなに我慢している私をわかってくれない人は嫌い」
という嫌なやつになってしまう。
この問題、かなりあちこちで見かけるのだけど、どうだろう。
ハイステ「飛翔」
配信で「飛翔」を観てる。
初めて。
細かく面白くて、呟きたくなる。
原作の、アニメ化、映画化、ドラマ化、舞台化は、まず解釈のおもしろさがある。
最近は、かなり原作に忠実でその余地がないものが多い中、もしかしたら舞台が一番斬新かもしれない。
配役、シナリオ、演出。
そこへ更にキャストの役作りがかさなる。
セリフ回しだけでなく、身体表現が秀逸だとおもう。
ツッキーの高身長で、肩から力が抜けてほんの少し前かがみなところ、宮侑の捻りが入った立ち姿、佐久早さんの骨盤が後傾気味なところとか、特徴をつかまえた上で、再現してるのが凄い。
あとは、影山くんと二口さんは素に近いのかなあ、とか。
影山君の役者さんは特に近所の子によく似てて、「あーそういう口聞くよね」とリアルな高校生とダブったので、逆にに原作の影山くんに対するイメージが広がった。
飛翔はちょうど今季終わったアニメのところで、日向をはじめ、烏野に圧がかかってる章だけど、しょっちゅう笑いを取りにきてくれるので、アニメで観ているより気持ちが軽かった。日向の役者さんの笑顔がでかいのも良かったな。
それに舞台観て初めて気がついたけど、黄金川、五色、青根、の出てくるとほっとする三人が揃い踏みだったのだわ。
こうなってくると、音駒と梟谷のとこも観てみたいなあ。
どう解釈しているのか、興味が尽きない。